日枝神社の広報誌「山王」の通巻132号の中から
一部特集を抜粋して紹介いたします。
広報誌の全編は山王ギャラリーからご覧いただけます。
著:江戸祭禮研究
山瀨一男
江戸祭禮山車
山王祭は、慶長八年(一六三〇)に徳川幕府が開かれ、江戸城築城の天下普請がまだ初期段階であった元和元年(一六一五)に、山王祭の山車練物の行列が江戸城に入った時から始まったと言われています。その後、江戸古町から厳選された町々(山王権現氏子地外も含まれる)が、山王祭に参加することが許されて大祭禮となり、その行列は四十五番組、山車の総数は五十五本を数えました。祭禮行列にはさらに、芸能を披露する< 屋台>< 学び>< 見立>という現在の仮装行列等が加わり、祭禮当日は江戸城下町が祭り一色となりました。山王祭の七十数年後に始まった神田祭も同様に大祭禮となり、後年、山王祭・神田祭は天下の徳川将軍を寿ぐ『天下祭』と称されるようになったのです。
このように番組数、山車の総数を誇った天下祭ではありますが、江戸の庶民には、毎回変わらぬ〝山車〟よりも、毎年出し物が変わる〝屋台〟や〝学び〟等の人気が高かったようです。とはいえ江戸の山車は、天下祭の華やかさの一翼を担い、現在も関東圏に影響を及ぼし続けていますが、江戸山車の形は、現在関東地方に見られるような三層構造の型式だったわけではありません。ごく初期の型式から江戸二百五十年余の時を経て発展していったのです。
山車とは
山の車と書いて、〝だし〟と読んでいます。普通に読めば〝やまぐるま〟とか〝さんしゃ〟としか読めません。『花車』『楽車』と書いても〝だし〟読み、『車楽』と書けば〝だんじり〟と読みます。
本来の表記は『山車』ではなく、『出し』と書きます。山車・花車等の表記は、この『出し』に対しての当て字なのです。それでは『出し』とは何なのでしょう。
祭禮とは、神祭であることから、神様をお迎えする所に、土或いは砂を山の形に盛って神事の場所を設えます。この場所を『山』と称します。
さらに天界の神様が神事の場所に伝って降りやすいように『山』に一本の柱を立てます。これを『鉾』と言います。加えて『鉾』の入口がわかるように、鉾の先端に目印の飾りを出します。目印を出すことから、これを『出し』と言うのです。出された飾り(依代)は、正確には『出し印』と記し、出し印は〝花〟〝 道具〟〝神事〟〝 能の演目〟〝 神話〟〝 武将〟〝 動物〟など様々な形があります。江戸の町々は縁起を担いで出し印を選びました。このことから出し印を表す時には『出し』であり、車全体を表記する時は『山車』と記すべきでありましょう。また、山車を数える単位は、鉾の数を数えることから『台』ではなく『本』となります。※図①参照

江戸の山車 特徴と移り変わり
江戸天下祭の『山王祭』『神田祭』は、将軍家の御上覧を賜るので、その行列が江戸城に入城して行きました。そのため城門を潜ることから、山車の高さに制限ありました。その制限を取り払うために高さ調節の『からくり』が施されていたのが江戸山車最大の特徴でありましょう。
明暦(一六五五)頃の山車は、鉾と出し印のみで、それを手に持つか囲桁に組んだ枠に鉾を立て担ぐ型式で、非常に簡素であったことがわかります。

現在、祭禮の時に四神鉾が飾られますが、江戸初期の江戸山車様式が四神鉾として受け継がれています。

元禄から正徳の頃(一六八八~一七一五)は、各町は山車と屋台を出し、天下祭は隆盛期となりますが、祭禮の主役は屋台でありました。山車は少しばかり立派になりましたが、囲桁枠を担ぐ形に大した変化はなかったようです。また、出し印の後方に吹流しに似た『吹貫』が飾られた型が全盛となりました。❸

八代将軍徳川吉宗の享保の改革の倹約令により、年々豪華になっていった屋台を出すことが禁止され、山車のみの祭禮となりました。主役であった豪華な屋台は、芸能を見せる『踊り屋台』と『底ぬけ屋台』とに分割され、禁止令をすり抜けるようなかたちに変わりました。
天下祭の行列には、山車・屋台のほかに花万度が出ていたのですが、この花万度はかなり大きな造り物で、力自慢の男達が振り回したようです。行列途中の道中で町境の木戸を壊すなどが度々あったため、安永年間(一七八〇)頃に、花万度を担ぎ出すことが禁止されました。すると、江戸っ子達は、「振り回さなければよかろう」と、山車に万度を付けて曳万度としました。これが一本柱万度型の出現です。
それ以前の江戸山車の大きさは、城門を『からくり』無しで潜れる規模でしたが、一本柱万度型は中心になる鉾(柱)を後方に倒すことにより、高さを調整して城門を潜るような仕掛けで、山車の大きさの規模も大振りになりました。❹❺❻



一本柱万度型水垂付山車
文化文政期には、天下祭は隆盛となり天保の頃(一八三〇~)に、山車の多くは一本柱型万度型に替わり、さらに高欄と四方幕が付いた一本柱高欄型が現れました。❼

所有町は元四日市(現日本橋一丁目)
山車「鳳凰」
安政四年頃(一八五八)になると、鉾を倒す型式から、三層せり出し型と呼ばれる新たな高さ調節のからくりを備えた江戸山車が現れるようになりました。出し印(三層目)と四方幕で飾られた二層目の枠を一層目の枠内に上下に出し入れが出来る仕組みで、二層目・三層目を可動させるための緒環(おだまき)という装置が取り付けられました。❽❾

加須市本町出し「羅陵王」旧所有町は通油町他二町

「日本武尊」
旧所有町は元四日市他三町(現日本橋一丁目)
別の型式が他にもありますが、要約して記載しました。このように『城門を潜れる』或いは『潜る』ように工夫された山車が江戸型山車なのです。
江戸の山車は活き続ける
時代は明治に、江戸は東京となり、祭禮では、江戸山車は一本柱型と三層せり出し型が混在して使われていました。江戸名物と言われた江戸山車の多くは、大正十二年(一九二三)の関東大震災によって消失してしまったのです。しかしながら、江戸山車は現在も息づいています。東京都心部が神輿祭に変わってしまった今でも、祭禮で子供たちが曳く太鼓山車は、江戸山車を子供仕様にして活躍させているのです。これからも姿を変えた江戸山車は活き続けることでしょう。
二年後に向けて
二〇二〇年は、山王祭大祭の年であり、また二度目となる東京オリンピック開催の年でもあります。現在の東京は、二百六十余年続いた江戸時代が基礎となっていると言っても過言ではないと思います。さらに、日本は最先端の技術大国でありながら、古い文化もそのままに残されていることが、世界中から評価され注目されています。オリンピックを機に、日本・東京がさらに注目されることは間違いないと思われます。そのような時、東京に江戸の文化が残っていることを世界に発信できる絶好の機会であるはずです。何らかの形で、江戸祭禮文化を世界の人々に観ていただければと思います。