山王特集記事

描かれた江都の祭禮

日枝神社の広報誌「山王」の通巻130号の中から
一部特集を抜粋して紹介いたします。
広報誌の全編は王ギャラリーからご覧いただけます。


著:江戸祭禮研究
山瀨一男

描かれた江都の祭禮

江戸時代後期から明治・大正時代にかけて、多種多様の錦絵が版行されました。もちろん江都の祭禮も同様に錦絵として描かれ、応時の様子を視覚的に窺う手がかりとして、更には祭禮全体の研究対象の一部として貴重なものとなっています。江都の祭禮で錦絵に描かれたものは、後世天下祭と称された『山王祭』『神田祭』と『江都祇園祭(天王祭)』が圧倒的に多く、他の祭禮は全く見かけないと言っても過言ではありません。前述の祭禮は、江戸城下町を賑わせた大祭であり、この連載でも繰り返していますが、この三つの祭禮こそが江戸三大祭りなのです。今回は、江戸三大祭り祭禮絵の中でもあまり知られていない玩具絵等に焦点を当ててみます。

【立版古(組み上げ)】

立版古とは、錦絵に刷られた絵を切り組んで、細工を楽しみながら立体的に組み上げるもので、現在のペーパークラフト或いはプラモデルの原型とも言えるものです

◎江戸山車の立版古

私の手元にある立版古は、山王祭の山車として、日本橋通四丁分『神功皇后』、小田原町『静御前』、日本橋檜物町『玉ノ井龍神』、日本橋本町『弁財天』、本石町『浄妙坊一来法師』、駿河町『春日龍神』、箔屋町『佐々木四郎』、本材木町『源頼義』、元四日市『日本武尊』他で、神田祭の山車としては、『和布刈龍神』『関羽』『弁財天』『安宅の関』『飛騨匠』『白雉子』『鐘馗』『小鍛冶』『豊玉姫』『神武天皇』等です。山車の型式としては、一本柱型、岩組型、三層せり上がり型で、江戸中期から幕末までの江戸山車を組み上げることができ、尚且つ山車の変遷を判別することができます。

山王祭山車一覧万延
元年(一八六〇)

この一連の山車立版古を描いたのは歌川国芳の門人「歌川芳藤」で「よし藤」と号してその名が知られています。また、『玩具絵のよし藤』としても広く知られているのですが、玩具絵は子供のためのものであったので、実に遺された絵は少なく現在では大変貴重です。さらに申し上げると、芳藤の祭禮錦絵は大変精緻に描かれているため、後世我々の研究にとって貴重な資料となっており、ことに四枚綴りで描かれた〝山王祭 山車一覧〞は、各町の山車が全て載っており、それぞれの出シ印・山車幕・山車型式等の違いがひと目で解るものとなっています。

日本橋四丁目「神功皇后」
文久二年(一八六二)

◎山車人形の立版古

前記の様に山車の立版古は、芳藤の作が多く知られていますが、芳藤以外が描いたものも少なからず現存しており、なかには非常に珍しい立版古が遺っています。

鐘馗の出し組上げ
明治十八年(一八八五)

この絵は、三代目原舟月が文久二年(一八六二)に製作した山車人形『鐘馗』(神田多町)です。こちらは江戸名物・神田名物とも称された有名な人形ですが、この立版古が実に面白いのです。後の着せ替え人形の原点となるような絵です。

◎祭禮行列の立版古

立版古のなかには祭禮の模様を描いたものもありました。珍しいものとしては、山王祭の山車行列が江戸城の内堀の橋を渡って入城する直前を著したものがあります。また、神田三天王祭(祇園祭)の中でも一番大きい祭禮であった小舟町天王祭を描いた立版古も現存しています。これは小舟町の祭禮時の小舟町の街並みを著したもので、十枚綴りの立版古を組み上げると御仮屋からお宮道へと続く街並みがジオラマ型式にできるという壮大なものです。

山王祭行列
(製作年不明)

【双六】

現在でも、特にお正月に楽しまれる双六。江戸時代の祭禮も、様々な双六になりました。山王祭と神田祭を併せた壮大な双六もありますが、ここでは明治期に最大と言われた神田祭を双六にしたものを紹介します。この年、神田祭では各町が競い合って山車祭禮を行いました。振り出しが大傳馬町『諫鼓鶏』に始まり、四十三の山車が描かれていて、上がりは『神田神輿行列』になっています。

【燐票】

マッチラベルのことを燐票と言います。この燐票にも江戸名物の山車が描かれました。(昭和八年に山王祭十二種、神田祭十二種)それほど城下町の人達は、江戸の祭禮に誇りを持っていたのでしょう。

神田御祭禮出支雙録
 明治十七年(一八八四)
山王祭山車盡より
昭和八年(一九三三)

【スタンプ集】

近年、御朱印を頂くための神社廻りがブームになっています。また、様々なイベント等でスタンプラリーも催されています。戦前のいつ頃か年代かは不明ですが、神田祭スタンプ廻りがありました。神田の名店の広告付きではありますが、すべて集めると四十ケ所以上に及ぶ見事なもので、神田の老舗のなかにはこの時のスタンプが現存しているとのこと。

大江戸の誇
神田祭山車四十番
スタンプ集より
スタンプ二枚
昭和初期

今回ご紹介したものを透して観えてくることは、現在よりも祭禮が様々な形で江戸庶民により奥深く浸透し、今の私達が楽しんでいる事柄の原点が、既に江戸期から昭和初期にかけて出来上がっていたことに驚かされます。現在、世界中に日本のコスプレ文化が拡大されていますが、これも既に江都祭禮の「学び」という附祭(仮装行列)で盛んに行われていました。日本人は江戸の頃よりコスプレが大好きだったようです。附祭については、また別の機会に紹介したいと思います。

今に繁る文化を遺してくれた江戸の先人達を思うとき、私達が後世に残せるような事柄が、もっと祭禮を楽しみながら産み出せればよいと思っています。

日本橋住人記す