日枝神社の広報誌「山王」の通巻128号の中から
一部特集を抜粋して紹介いたします。
広報誌の全編は山王ギャラリーからご覧いただけます。
著:江戸祭禮研究
山瀨一男
江戸神輿と八坂神社
平成廿八年六月、伝統の山王祭が始まる。産子各町は祭りの晴れ舞台に湧き、神輿が町に溢れる。
江戸時代の山王祭は、山車や屋台などの附祭りの祭禮で、その山車文化は関東一円に拡がっている。現在の山王祭は神輿祭に変化しているのだが、何故であろうか。その鍵となるのが末社「八坂神社」なのである。そして八坂神社が日枝神社の境内に創建され百三十年の節目の年となるのだ。
江戸天王祭(祇園祭)
江戸の最古の神(地主神)は記紀神話で知られる「素戔鳴命(すさのおのみこと)」である。のちに仏教上の神「祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)」と神仏習合し、素戔鳴命の祭の事を「祇園祭」とか「天王祭」と称するようになった。荒ぶる神の神威を借りて疫病退散の祭りを行ったのである。
江戸天王祭は慶長十八年(一六一三)六月七日に、南傳馬町(現京橋)の名主「高野新右衛門」が、大手門に天王神輿を持参し奉幣したことから始まった。のちに、社を神田明神の摂社として三殿に分けて造営し、天王社一之宮の御祭神を素戔鳴命(宮元南傳馬町)、二之宮を御祭神五男三女(宮元大傳馬町)、更に三之宮御祭神を奇稲田姫(くしいなだひめ / 宮元小舟町)として、日本橋界隈を三つの神域に分けた。天王祭は毎年六月初旬から中旬にかけての長丁場の祭で、城下町を大いに賑わす大祭となった。中でも一之宮の神輿は大手門から江戸城に奉幣した後に、南北町奉行所までもお祓いをした。
こうした神輿祭の天王祭は、両天下祭(山王祭・神田祭)と平行して徳川二百五十年の間、毎年六月に執り行われていた。
江戸神輿の出現
徳川家康が入府した頃、江戸には文化というものは殆ど無く、様々な文化の大半は上方から導入したものだった。祭禮文化も然りである。神輿も当初上方の型式をしていたが、徳川期二百五十年の間に天王祭を通じて江戸神輿として発展していった。上方の神輿と江戸の神輿の型の違いは様々あるのだが、江戸神輿の特徴的なものを紹介しよう。
天王社の宮神輿が渡御してくると、観衆達から神輿に向かって御捻り(おひねり / 賽銭)が投げられた。更に魔を祓うものとして、魔除けの団扇も神輿に向かって投げられた。これは江戸前の風習と言っていい。神輿が御捻りを受けるための装飾として屋根の際に付けられたものが「葺き返し」(俗称賽銭受け)である。
現在、東京中で担がれている神輿の大半にこの葺き返しが付いていることから、ある意味で天王神輿を担いでいると言っても過言ではないが、賽銭投げの風習は今となってはほぼなくなってしまった。団扇に関しては、埼玉県熊谷市の祇園祭が「うちわ祭」として有名である。江戸天王祭の団扇投げを模し、団扇を配るというかたちで祭禮文化が熊谷に伝わっている。他所では栃木県宇都宮でも近年まで団扇投げが行われていたようだ。
幕府主導の天下祭での宮神輿は、定められた町の人々が白丁(白装束)の姿で神輿を揉まずに担いだのに対し、天王祭の宮神輿は幕府が一切関知せず、勇み肌の江戸っ子達が〝揉み担ぎ”していた。産子町内から町内へ、次から次へと神輿渡しを行い、いわば産子地のあらゆる露路へも神輿を巡行させ町々を祓って行く。まさしく江戸神輿祭の原点が天王祭にあるといえよう。
江都三大祭とは…
ところで、山王祭の宮神輿三基は、祭禮行列の最後に巡行したのだが、それぞれの宮神輿を担いだのは、大傳馬町・南傳馬町・小舟町であった。神輿を担ぐという点で、天王祭宮元三町がそれを分担したわけだ。
両天下祭と天王祭が共通して言えることは、祭禮行列が江戸城に入城し、城下町(下町)を大いに賑わせ、数多くの錦絵にも描かれていること、そしてその祭禮文化は関東一円に伝播し現在もなお影響力を持ち続けていることだ。したがって『江都三大祭』とは山王祭・神田祭・天王祭なのである。
明治以降の江都祭禮
文久二年(一八六一)の山王祭を最後に、上覧祭としての天下祭は終焉を迎えた。天王祭も新政府が神仏分離令を出すことにより、仏教色が強い御祭神の祭禮とも捉えられ、次第に衰退して幻の祭りとなっていく。山車祭としての山王祭も、序々に路線を拡大していった市電の跨線により、山車曳きが出来難くなっていった。山王祭や神田祭は、明治末期~大正期にかけて天王祭の神輿の運用方法を取り入れながら、山車祭から神輿祭へと変貌していった。ところで明治九年に日本橋をはさんで北側が神田神社の産子地、また南側が日枝神社の産子地と神域を確定されたことにより南傳馬町界隈は日枝神社の産子地でありながら、南傳馬町が奉斎する天王社一の宮は神田神社境内にあるという錯綜する型となってしまった。
末社『八坂神社』
神田神社地にあった南傳馬町の天王一之宮は、明治十八年(一八八五)二月十三日、湯島の火災により社と神輿は共に焼失してしまった。これを契機に翌明治十九年(一八八六)、南傳馬町と一之宮の産子(全て日枝神社の産子町)は京都八坂神社から素戔鳴命の御分霊をいただき、日枝神社の社地に八坂神社を末社として創建、江戸最古の神を祀ることになった。つまりは、江戸の天王一之宮の本流が日枝神社に鎮まっているということである。
こうして本年は八坂神社創建百三十年の節目の年となる。現在の山王祭を語る時、山王の大神様は勿論の事、あらためて末社八坂神社への思いを馳せる年となるのではないだろうか。